「Paradaise Lost」

 

 

諸行無常という言葉が多く言われた数年だった。

 

 

私が立っている大地はすべて死骸で出来ている。

落ち葉から始まり、すべての有機物無機物が重なり、時間を経ている。

その大地からすべてをもらって生きている。

すべては過去からの賜り物なのだ。

 

私の父はもうこの世には居らず、順番で行けば私は母を見送ることになるだろう。

私には子ども達がいて、いつか私も彼等に別れを言い、彼等はいつか私が知ることの出来ない未来を歩んで行くに違いない。

 

 

私はいつも、あの砂浜にぽつんと座り込んで貝殻をひろい、飛ぶかもめを目で追いかけ、波の向うの見えない何かを見ていた子どもだった。

私の宝はあの砂浜に置いてきたままで、そしてそれはもう、どこにもない。

 

失った宝を私はずっと探しているが,それはもう私の頭の中にしかないと思うようにしている。

 

あの砂浜にはもう、残像しか残っていないのだ。

 

それを描きたい、私の得難いものを絵にしたい、それがこの数十年だった。

 

 

 

 

 

永遠を求めるのは恥ずかしいことだろうか。

 

 

 

 

 

私の20年以上に及ぶ月日を費やした絵を、生まれ故郷の懐かしい場所に置きます。

父の作品も一緒に並べます。

 

 

潮騒と霧、潮の香りに焦がれる8月になりそうだ。

 

 

 

 

 

                     2013年8月 

                      ART BANK GALLERY 一周年記念展によせて

                      Lay dawn your weary tune  を聴きながら。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「The Unforgettable Fire」

 

子どもの頃にあれはテレビで見たのだろうか、それとも本で読んだのだろうか、私は若き古代エジプト王の墓に供えられていた青いヤグルマギクにひどく心魅かれ、打ちのめされた覚えがある。

 

何千年も昔に供えられたヤグルマギクは美しい青だったと、私は記憶している。

 

 

めぐりあう時間たち、という邦訳の小説がある。マイケル・カニンガム著で、映画にもなった。美しい物語だ。

その映画で、病んだヴァージニア・ウルフの家の家政婦が見事に青いヤグルマギクを生けていた。その青さ、その生け方のデザインが物語のすべてを象徴しているようだった。

 

あのように美しい青の生け方を見た事がない。

 

私はこの場所に越してからずっと青いヤグルマギクを庭で育ている。

今年は昨年のこぼれ種から芽がでなかった。

春になったら、苗木を買わねばならない。

この花がなければ、私の庭に決定的な何かが欠けることになる。

 

 

先日、タンスを整頓していたら、今は亡き父の着ていた青いシャツが出てきた。製作のとき絵の具で汚しても良いように、古着をもらってあったのだ。もう20年以上もまえのシャツだ。

ウルトラマリンブルーのシャツ、人工的なウルトラマリンブルーの色、でもこれと同じ色に海が光るんだ、と父は言い、その海を描いていた。

ほんとの海はこんな色じゃないと言う人は多い、自然の色はもっと違うとかたくなに主張するひとほど自然主義者を名乗る、しかし、あなたはどれほど海を見つめてきたのか?

 

画家が望む色、もしくは画家が驚嘆するような色を自然が与えてくれることを、自然主義者,現実主義者は良く知るといい。

そういうふうに見えるんだ、という表現主義なのではなく、そこにある色なのだから。

 

 

 

青い火を見た、といって、全身の細胞を放射能に貫かれた人々がいる。

青い火は今も彼の地で燃え続けているのだろう、それを一体誰が見届けられるというのだろう?

プロメテウスの火は青い色だったのだろうか。

 

青い火は人を惑わし狂わせるという言い伝えを聴いた事もある、しかし昨今のブルーライトの何たる多さよ!車のヘッドライトはいつからあんなに青いビームを恥じらいもなく発するようになったのだ?

 

 

 

昨年、青い目の子猫を手放した。

ブルームーンと言われる8月の2番目の満月の夜に我家にやってきた月の申し子のようだった。

子猫の瞳は,私が16歳の頃、アメリカの片田舎で子守りしていた3歳児の瞳と同じ色だった。

過ぎ去った輝きを思い出させるような瞳。

 

 

ルドンの描く青、あれほど私の魂をかきむしる色もない。

どうしたら? HOW? 

いつまでもいつまでも視ていたいような、または泣きながら激しく逃げ出したくなるようなルドンの青さは、ほんとうに素晴らしい。

 

 

色彩はそれを見る個人の眼球しだいで、微妙に調子が変わる。

男女でも色彩をとらえる幅が違うそうだ。

私が見つめる青とあなたが見つめる青に開きがあるならば、私はどうやってあなたに私の知る美しさを伝えればよいのだろう。

あなたの見ているものと私の見ているものがあまりにもかけ離れていたとしたらば、どうやってこの絶対的な美しさを伝えられるというのだろう。

 

 

どうあったとしても、伝える必要があるのだ、色彩という世界が、私たち人間のためだけに美としてこの世界に存在しているというこを。

 

 

 

   (2013年2月  レクトヴァースギャラリー

           「創造のイノベーション」 グループショウにおいて)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「Landscape, Escape to the light」

 

 

 

私の庭には静寂の音が溢れています。

それはこの惑星が奏でる音です。

風や光の音、動物や植物の音、精霊の音、そして、私の体内に流れる血液の流れが、まるで沸くがごとくにそれらの音と混ざりあっている、そんな音です。時には静寂でありながらも轟きのように私をとらえる事もあります。

それは美しく輝く、破壊力さえ感じるセンチメンタリズムです。

そのセンチメンタリズムは野に光り、闇に光り、あちこちで私は囚われます。

 

わたしは言葉でそれらを表現できません。音や光を再現する事もできません。

だから色に託すのです。

 

この世界では非力な存在でしかないセンチメンタリズムは私の心を破壊するものであり、かつ生きる原動力なのです。

そしてこのセンチメンタリズムこそ私にとってはもののあはれであり、暗闇から光へと逃げ遂せる細い道なのです。

 

 

絵画はその誕生より、ここにあるものから異なるものへ誘う装置としてあります。

別の所へ、あなたと一緒に出かけたくて、ここに絵を飾ろうと思います。

 

 

                                          内田美絵

 

 

                        (2009年 UPUPギャラリー 個展において)